涼宮ハルヒはしあわせ 第二話


「ねーえ、キョン君。猫なのにどうしてドッグフードなの?」
「あぁ。買うとき間違えちゃってな。でも捨てたら勿体無いだろ」
「ワンワン」
「あれれー? シャミの鳴声なんか変じゃなかった?」
「気のせいだろ」
「ニャンニャン」
 シャミセンを苛めても気分は晴れなかった。
 バリバリ引掻かれた。
 殴り返した。
 妹に怒られた。

 風呂に浸かって、ぼうっと天井を眺める。
 天井にぶつかった湯気が集まって水滴になり、自重が表面張力を上回って、湯船に落ちてきた。
 ぽちゃんという情けない音がヤケに浴室に響く。どうしてか、溜息が出た。湯気越しに見える灯りがキラキラと輝いてまったく綺麗だ。
「何やってんだかな、俺」
 色んなことに耐え切れなくなって、可笑しな部活を辞めた。
 アイツ等に冷たく当たって、キツくあしらって。そうしていれば、向こうから絡んでこなくなる……と、そういうはずだったのに。普通の高校生に戻れるとそう思っていたのに。
「ハルヒの奴、」
 大丈夫かな、という言葉を飲み込んだ。
 それだけは吐いてはいけない。この気持だけは持ってはいけないんだ。
 ――だったらどうして放課後の教室で俺はあんなことをしたのだろう?
「……本当に、何やってんだか」
 ハルヒの濁った目が、長門の――悲しそうな表情が、脳裏にこびり付いている。
 俺の問いに答えてくれそうな奴は、非常に残念なことに見当たりそうになかった。
 俺は優しくなんかない。

 浅い眠りを何度も繰り返した。
 当然寝不足だ。目の下にはうっすらとクマが出来ていた。
 ……憂鬱な気分を引き摺って登校する。
 心なしか自転車のペダルも重い気がした。天気も曇りだ。
 通いなれた筈の坂道が今更だが絞首台へ続く階段に見える。軽い眩暈。はぁ。
 しかし、そんな事より何よりも、
「キョン? 大丈夫? 顔色悪いわよ?」
 俺が家を出たときからずっと付いてくるコイツの声が一番鬱陶しい。
 玄関の戸を開けるなり、吃驚して尻餅をつくところだった。喜色満面の笑みをはっつけて「おはよ!」とのたまったコイツは、一緒に登校しようと思ってだとか何だとかで、三十分は俺の家の前で待っていたと言うのだ。
 その手に手作りの弁当まで引っさげて。
 ……また寒気を感じたね。それもおぞましい寒気。お前はストーカーかよ、という台詞を飲み込むのに苦労した。
「……寝不足なんだ。そういうお前は何時も元気だな」
「私の辞書に不調なんて言葉は無いのよ! ……そんなことより。駄目よ、夜更かししたら。風邪引いたらどうするのよ。まぁ、その時は私がつきっきりで看病するから大丈夫だけど……」
 嫌味だったんだが気がつかなかったようだ。
 それと看病なんか要らない。いや、出来るなら欲しいけど、お前だけはお断りだ。
「……頭に響くからもうちょい静かにしてくれ。割れそう、マジ」
 頭痛を堪えるような仕草をして、呻くように言った。
 そんな俺を見たコイツは、
「っ。その……う、ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
 案の定……俺の制服の裾を掴み、泣きそうな顔をしてごめんなさいを繰り返すのだ。
 大丈夫? 大丈夫? と俺の顔を覗き込んでくる。って良く見たら少し泣いてるじゃねーか。
 更に救急車を呼ぶだのと騒ぎだしたので、この辺で止めることにした。
「馬鹿、冗談だよ」
 言って、ポンと頭を叩いてやる。
 俺の顔は笑っているはずだが心の方はくすりとも笑っちゃいない。
 ハルヒはころりと表情を変え、うっとりとした声でやっぱりキョンは何だとか言い出した。幸せそうな顔だな、と思った。とても不幸せそうな顔だ。 
 二人で歩く坂道は、叩き潰した糞みたいに地獄だった。

 谷口やら国木田の能天気な顔が、髪の毛ほどの細い残像だけを残して、俺の記憶から消えた。
 ハルヒのことで何かからかわれたりしたような気がするが、覚えてない。
 俺の海馬には下らないことを刻む余剰スペースは生憎皆無なのだ。
 ハルヒが休み時間になるたびに何か喋りかけていたような気がするが、右の耳から入って左の耳から抜けていった、という事くらいしかこちらも覚えていない。
 あぁ、とか、うん、とか、そうか、と相槌くらいは打っただろうか。
 一度授業中にシャーペンで背中を突っついてきやがったが、睨みつけて「止めろ」と言うとお決まりのごめんなさいと共に大人しくなった。
「……やれやれ」
 漸く昼休みなった。漸くというのはおかしいかもしれない。ぼんやりとしていて、余り時間が流れていた実感が無い。
 だというのに、陰鬱で酷くよくない物が、俺の心の中に溜まっていくのは明確に感じ取れていた。
 そこに新たによくない物が追加される。
 朝、ハルヒが作ってきていた弁当だ。
 ……要らん、と突っぱねたら大泣きしたのでしょうがなく受け取ったが、喰わねばならんのか。
 鞄の中に鎮座する女の子した包みと、お袋が持たせてくれた御馴染みの包みを見比べて、溜息を吐いた。
 キンキンと癪に触る声がする。
「さぁキョン! 一緒に食べましょう!」
「……あぁ」
 料理の腕は何故か良かったからな、コイツ。と無理矢理に自分を納得させて、俺は鞄からピンクと白のチェック模様を取り出した。
 愛妻弁当じゃないのか、それ!? と騒いでいる馬鹿は誰だろう。良かったら変わってやろうか。寧ろ変われ。
「腕によりをかけたのよ!」
 ……蓋を開けて嘆息する。これだけ手の込んだ物、三十分やそこらでは作れないだろう。朝何時に起きたのだろう、コイツは。まぁ、そんなこと考えるだけ無意味だけど。
 機械的に箸を動かして、機械的に咀嚼した。
 悲しいことに美味かった。
「まぁまぁだな」
「そ、そう? よかったぁ。ありがと。えへへぇ」
 俺が食べている間は熊と対面したウサギのようだった顔に、向日葵が咲いた。
 
 腹ごなしの散歩は日課だ。
 これから夕食までの間にお袋の弁当も片付けないといけないので、体育の授業が無いのが恨めしい。
「腕組みも、手を繋ぐのも駄目だからな」
「分かってるわよ。学校だもんね。TPOは弁えないとね」
 ……当然のように、ハルヒはくっ付いて来ていた。 
 俺が弁当を喰ったのがよほど嬉しかったのか、スティックスの『Come sail away』のサビを繰り返し口ずさんでいる。鬱陶しいことこの上ない。
 着いてくるなと言うのは簡単だったが、泣いたコイツを嗜めるのは簡単じゃない。
 人目のない所、例えば体育館裏などでガツンと言ってやろうか――家の前で待つな、弁当作ってくるな、喋りかけるな――とも思ったが、そんな所につれて行けば、頭の回路が全部ショートしたコイツは、
「……良いのよ? ここでしても」
 濁った瞳を濡らして、そんなふざけた事を言い出しそうで。
 連日コイツの”女”の顔を見るなんて気持の悪いことをしたくない俺は、ストレスやフラストレーションを溜め込むしかできないのだった。どの口がTPOだなんて高尚なもんを吐き出してんだ、馬鹿。
「明日は土曜日ね」
「……」
「キョン? どうしたの、また気分悪くなった? 保健室行く?」
 一度無視しただけでこれか。
 どうやら覚えていない休み時間の俺は、相槌だけはきちんと返していたらしい。
「ぼうっとしてて聞こえなかっただけだ。心配すんな」
「そう? それなら良いんだけど」
「で、何だって」
 不思議探索だとか抜かしたらどうしてやろうか。
「あ、うん……あ、明日の事なんだけど。キョン、暇かなぁ、って」
 頬を染めて、胸の前で指を絡ませたり、離したり。俯いて自分のつま先を見ていただろう瞳が、「って」の所で上目遣いに俺を見た。
 悪寒が背筋を走るのを感じながら、俺は即答していた。シークタイム一ミリ秒以下。
「用事がる。大事な」

「……大事な、用事?」
「あぁ。メチャクチャ大事な用事だ」
 もしも俺が暇だと返答すれば、その次にデートとかそういう類の台詞が飛び出すに決まっていた。
 大事な用事など無いが、ここで突っぱねておかないといけない。傷口が広がる前に。
 だとういうのに、
「……あたしよりも、大事?」
 自分の制服の裾をぎゅっと握り締めて、ハルヒは上目遣いの瞳をふるふると震わせている。
 マスカラで縁取りした安物の黒曜石にはありありと恐怖が浮かんでいた。
 ――こいつ、化粧してるのか。
 意味の無い思考が頭を駆け巡った。どうしてお前は自分で自分の傷口に塩を塗るんだ。
 そんなこと聞かずに「そうなんだ」で済ませば良いじゃないか。また暇が出来たら教えてね、と当たり障り無いことを言って、話題を変えれば良いじゃないか。
 あぁ、お前よりもな。
 と言われるかもしれない事を自分でも予期しているから。だからそんな目をしているんだろう? この糞馬鹿野郎。
 自分に自信が無いから。いつも根拠のない自信と傲慢に溢れていたお前が、紋章めいてすらいたそれらをどこかに落としてしまっていたから。
「……ねぇ、キョン」
 蚊細い声。
 俺はお前なんか大嫌いなのに、お前がぶっ壊れているから、
「馬鹿。そんな訳あるか。それに、明後日なら空いてる」
 反吐を吐く気持でそんな事を言ってしまうんだ。

「本当!? よかったぁ!」
 大好きよ、キョン! と。
 抱きついてくるハルヒを、俺は無感動に抱きとめた。

 午後の授業時間は、午前中に輪をかけてぼんやりと流れていった。
 背後からは如何にも「私しあわせです」というオーラが漂ってきている。クラスの皆からは、微笑ましい視線や恨めしい視線が集まってきている。
 首元には、生暖かい吐息の温もりが残っている。
 もうどうにでもなれ、と全部投げ出せたらどんなに楽だろう。
 でもそれでは負けだ。完敗だ。だから、俺は踏ん張らないといけない。
 弱い俺をたたき出して、冷徹で冷酷な俺に生まれ変わって、可笑しなヤツ等と決別しないといけない。
 そう決めた。そして退部した。……だというのに、俺は一番嫌いだった――だった?――奴と、今は格別にぶっ壊れてしまったソイツと、日曜日にデートする約束なんかをしてしまっている。
「――」
 脳裏に過ぎるその考えは、滑るような自然さで俺に降って来たものだ。 
 ……この状況は、アイツの能力によるものなんじゃないか。
 その考えは、ていのいい逃げ道のようであり、それでいて気を抜けばストンと腑に落ち納得してしまうようなシロモノだ。
 天高く張られたロープの上を命綱無しで歩くような危うさがあり、一度足を踏み外せば、奈落の底に落ちて行く。
 その考えを――この今の俺の状況が、本当にアイツの力の所為だとすれば、まさしくこの世は地獄だ。
 俺がどんなに抗おうと、結局はアイツの望む状況と結果にしかならないのだから。
 どんなに誇り高い決意で臨もうと、俺の目的が果たされることが無い世界。ただひたすらに、アイツが”しあわせ”になるよう成っている世界。
「……はぁ」
 答えは出ない。俺が弱いのか、あいつの力の所為なのか。分らない。
 こんな事になるなら、ニヤケ野郎を殴るんじゃなかった。それともヒューマノイドに聞けば分かるだろうか。ただ、アイツは観察に徹すると言った。それに、もうあんな顔は見たくない。
 溢れそうになる陰鬱に何とか蓋をしながら、俺は机の中に入っていた一枚の便箋に視線を落とした。
『放課後、部室に来て下さい。お話があります。朝比奈みくる』
 ――今起こっている出来事は全て既定事項です。
 そう言われたら、俺の頭も狂うだろうか。
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by kyon-haru | 2006-11-06 05:24


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