涼宮ハルヒはしあわせ 第五話


 洗面所で鏡に映ったのは、他人に近い自分の顔だった。酷い有様だった。クマもさることながら、頬も少しこけていた。たった二日で……? それとも、以前から俺はこんな顔をしていたのだろうか。分らない。
「……」
 歯を磨き、無精ひげを剃り、顔を洗う。
 たまに妹と一緒に行う行為を、一人でただ漠然とこなしていった。
 幽鬼のような俺の様子を心配してくれる家族の声もあまり耳に入ってこず、ただ朝飯をぼんやりと胃袋へと押し込めた。吐き気を我慢するのが困難だった。
 部屋に篭り、ベッドに寝転がる。
 視線をやった窓の外。空をすっぽりと覆う分厚い雲には濃淡があり、強い風にごうごうと流されていた。灰色に暗く翳る街並み。直ぐにでも土砂降りの雨が降り出しておかしくない天気だった。
 まるで俺の陰鬱な心境だな、と思う。
 溜息は吐いても吐いても貯蓄が尽きず、脳裏を迷走する暗澹で暗く重い思考。出口を探して彷徨う、堅牢の中を。
「……気持悪い」
 酷く疲れていた。体が重い。たいした運動などしていないはずだが、全身を鉛で包まれたかのような錯覚を覚える。精神に体が引き摺られているのだろうか。
 しんと静まった室内。自分の呼吸音しか聞こえない。
 イヤにでも昨日の出来事を思い出しそうになるのを歯を食いしばり頭を掻き毟って耐えようとする……のだけれど、耳にこびり付いたアイツの声が、どうしても離れない。

――殺してやる

 そして脳裏に浮かぶ狂ったハルヒのの顔と挙動。
 言い知れぬ不安感と恐怖感。
 首を絞めてしまった朝比奈さん。大事になる前に俺は手を離した。けれどアイツは、骨を折っても手の力を抜かない、だろう。振り上げられる凶器。肉に埋めりこみ、内臓をぐりぐりとかき回す切っ先。フラッシュバックする朝倉涼子の姿。……気持悪い。
「くそっ……」
 思わず込み上げた吐き気と、わき腹に走った幻痛に、俺はイメージを無理矢理に払う。
 そんなことは考えるな。考えるな。考えるな……!
 アイツがどうなろうと知ったことじゃないだろう。朝比奈さんがアイツの凶器の餌食になるかもしれない……それでも、もう俺は本気で拘わっちゃいけないと決めたのだ。だから、今更何を考えたって無駄だ。意味が無い。逃げれば良い。
 口では反論しながらも、結局はやれやれだなんて肩をすくめつつも我侭を聞いてやる――そんなのが一番嫌だったんじゃないか。アイツに振り回されるのが嫌だったんじゃないか。
 きっかけは思い出せない。けれど、何時の間にかそれが楽しいの感じれなくなったから、俺は退部を決意したんだ。楽しいどころか、苦痛にしか感じなくなったから、アイツ等と決別しようとした。
 だというのに、
「あぁぁぁぁっ!」
 一昨日の放課後ではあんな事をしてしまって、昨日の昼休みにはデートの約束なんかをしてしまった。それが間違いだった。既定事項が如何こうだとか、死人が何だとか、壊れたとかそんなものは全部顧ずに、初心を貫けばよかったのだ!
「ああっ、あぁ、はぁっ、はっ、はっ……」
 自分の口から漏れる音が五月蝿い。
 何時の間にか呼吸が荒く早く浅くなっていた。
 感情が昂って過呼吸を引き起こしたのか……。大丈夫。落ち着け。落ち着くんだ。ゆっくりと息を吸い、吐く。吸って、吐く。
「はぁっ、はぁっ、はっ、は、は、……、あ?」
 何度か繰り返して、ようやく鼓動は規則正しいリズムを取り戻した。
 それと同時に不意に感じたおかしな感触に、俺は顔に手をやった。
「……?」
 指に感じる、違和感。 
 温かい。何だろう――何て怪訝に思わなくても良い。分かってる。気が付かぬうちに、俺は泣いていた。涙を流していた。
 ここ数日のうちに溜まりに溜まった色々な邪悪で吐き気を催す陰鬱な感情が、とうとう溢れてしまったのだ。
「あ、あぁぁ……」
 涙に送れて、嗚咽がこぼれ出た。止めようとしても無駄だった。理性じゃない。本能だった。
「う、うあぁ、あぁぁぁあ」
 一度決壊したダムの崩壊は止まらない。心が酷く寒い。思わず肩を抱いた。がたがたと体が震えるていた。
「あっ、あうぅ、はっ、はる、ひぃ」
 涙と一緒に、ずっとつっかかっていた心のもやもやとした蟠りが晴れて行く。
 どうしてあんな事をしたのか……。
 色々と疑って、疑心暗鬼になって朝比奈さんの首を絞めるような事をしてまで知りたかったそれ。
「ぐぅ、うぅ、うう、うぁあ、あっ、ああぁ」
 その理由を……俺は最初から知っていた。分かっていたんだ。
 一昨日のあの時にもう、俺には無理なのだと悟っていた。
 俺の名をブツブツと何度も呟いているアイツの姿を見て、俺はこの場を収めるくらいには何だとかくだらないことを考えた。けれど違う。違うんだ。結局はアイツから離れられなかったのだ、俺は。心の底からアイツを怨めていなかった。嫌いになれていなかった。だから中途半端な事をして、最悪最低な道筋に迷い込んでしまった。もう抜け出すことのできない、堅牢の中に。
 そうだ。とどのつまり、俺が弱かった、ただそれだけの事。
 ただそれだけの事で、ハルヒは壊れて狂ったのだ。
 すまないと思う。ざまぁみろと思う。矛盾した二律背反は、整理など出来ない。
 どちらも本心で、どちらも嘘だからだ。俺もどうにかしている。いや、一番頭がオカシイのは俺なのかもしれない。

 だって俺は、どうしてアイツ等の事を嫌うようになったか、そのきっかけさえ思い出せない。
 小さな事の積み重ねだったのか。何か決めてとなるトリガーがあったのか。
 そんな事さえも、不確かなんだ――

「……」
 どれほどむせび泣いていたか、ワカラナイ。
 ホントウの俺がワカラナイ。
「……」
 空気が漏れるような音。俺のの呼吸音?
「……」
 頭痛がする。体がだるい。重い。寒い。心が軋む。ぼやけた視界は曖昧模糊で、まるで弱視になったみたいだった。
「……」
 胎児のように、体を丸めた。きつく自分の体を抱きしめた。爪が食い込んでイタイような気がした。
「……っ」
 窓の外、遠く向こうで何かが光った。
 遅れて轟く雷鳴。びくりと肩を震わせた。瞬間の後、滝のように一気に街に打ち付ける豪雨。世界を黒く塗りつぶす斜線、斜線、斜線。大きな雨粒が、屋根やアスファルトや車のボンネットにぶつかって些か耳障りな雨音を奏でている。
 錆びた匂いが鼻をつく。ずずず、と洟を啜り上げたところで、もう一度雷鳴が轟いた。
「……ぅ」
 その轟音に重なって、懐かしい声が聞こえた気がした。
 俺を励ますような、急かすような、とにかく行動しないといけないと駆り立てる声だった。

――   !

「あぁ……」
 もう一度声が聞こえた。確かに聞こえた。今度は届いた。
 誰だろう。俺の名前を、そんなに楽しそうに呼ぶの誰だろう。
「……そうだな」
 きっと、それは俺のとても大切な人の声だったのだ。
 何時の間にか体の震えは止まっていて、寒気も無くなっていた。呼吸も落ち着いて、頭はまだ胡乱としているが、普通に思考を出来るくらいにはなっていた。
「駄目、だよな」
 そうだ。このままじゃ駄目だ。と、そう思う。
 徐々に世界が鮮明になっていく。
 降って湧いたようなその気持は、丸出しの本心なのかもしれないし、違うかもしれない。
 ただの同情や憐憫や偽善かもしれない。好奇心なのかもしれない。複雑すぎる感情を的確に表現する語彙を俺は持たず、しかし確かなのは「このまま」では駄目だという気持。
 そうだ。だから確かめよう。行こう。今日はそれにだけでも、けじめをつけるのだ。

――死人のような顔をしていたハルヒ。アイツがあの後、どうしたのか。それを確かめる。

「……っ」
 目をがしがしと擦ってから、重い体を叱咤して、ベッドから跳ね起きる。
 雨が降って寒いから、少し厚着をして行こう。時計に目をやる。午前九時半。一時間以上もベッドの上でうだうだしていたらしい。急ごう。早ければ早い方が良い。
 念のためにと置手紙を机の上に残して、俺は家族に気づかれぬように家を出た。
 携帯を捨てるんじゃなかったと、今更ながらに後悔しつつ。そして、先に電話をかけておけばよかったと後々後悔することになると知らずに……やっぱり、上手く行かないな。


 外の冷たい空気で呼吸しているうちに、頭はすっかり元に戻っていた。どうしてあんなに泣いてしまったのか不思議に思うくらいにだ。つき物が落ちたのか。そこまで行かないか。証拠に、俺はまだ陰鬱なよくない物が心に溜まっているのを、確かに感じている。
「ふっ、ふっ、はぁ」
 傘を片手に自転車を漕ぐなんて危ないことをしつつ、アイツの家までやって来た。
 直接赴いた事は無かったが、同じ市内だ。家にあった連絡網から住所を調べて、思いのほかスムーズにたどり着くことができた。
 住宅地にある、ごく普通の一軒家だった。阪中が住んでいるような豪邸を何故か想像してしまっていたので、少々拍子が抜けてしまう。なにせ本当に普通だったから。……いや、アイツも阪中の家を見て豪邸だと驚いていたか。庶民なんだ。なら、その当たり前の普通という幸せを享受して生きていれば――なんてどうしようも無いことを考えても意味がない。
 頭を振って躊躇いを払い、意を決した。
 引き返しそうになる体を叱咤して、インターホンに手を伸ばす。電子音が鳴った音は雨音で聞こえなかったが、人が動いた気配は伝わってきた。
「――はい、涼宮ですが」
 暫くして聞こえてきたのは大人の女性の声だった。母親さんだろう。かつぜつの良い、雨に負けじとよく通る良い声である。……母親似なのかな、アイツは。
「どちらさまでしょうか?」
 こほん、と小さく咳払いをする。詰まりそうになる喉の通りをよくして、自転車に乗っている間に練習した台詞を引っ張り出してきた。
「休日に突然すいません。自分はハルヒさんのクラスメイトの……」
 自分の名前を告げた後、ハルヒが在宅かどうかを訊ねる。
 どうしても会わないといけない用事があるんです、と。
「あら? するともしかして貴方がキョンくんかしら?」
「はい。そうですけど……あの、どうして」
 渾名を知ってらっしゃるのだろうか。 
「娘がね、よく話してくれるの」
 インターホン越しに聞こえてくる機嫌のよい声に、俺の方は気まずくなる。
 頭が痛くなった。いったいどんな風に俺の事を喋ってくれていやがるんだ、ハルヒよ。どうせロクでもない風にだ。面白くないだの、最近では優しいだのなんだの。……まったく。忌々しいことこの上ない。
「はぁ……。あの、それでハルヒさんは?」
 漏れそうになる舌打ちを我慢して、再度訊ねた。軒先とはいえ雨の中立ちっぱなしというのも辛い。声が不機嫌になっていなかっただろうか?
「……」
 と、どうしてか沈黙が帰ってくる。
 ……何だ? どうして黙ることがある。在宅がどうかを訊ねただけじゃないか。答え辛いことでもないだろう……いや、もしかしてアイツが母親に俺が来ても取り次ぐなとかそういう風に手を回しているのだろうか。もしくは、母親さんに連絡もなしに急に休日に訪ねてきた男ということで不評をはくしてしまったとか。
 五秒、十秒、と沈黙が続く。さて、どうするか。とりあえず俺の方から出直しますだのなんだのと声を出そうかと考えたその時である。酷く気落ちした母親さんの声が聞こえてきた。
 その言葉を聞いて、俺は確かに血の気が引くのを感じた。衝撃に傘を落としそうになるのを堪えるのが困難だった。

「……ハルヒね、昨日から家に帰ってきてないのよ。連絡もないし、携帯にも出ないし……キョンくん、何か知らない?」

 親子そろって渾名で呼ばれるのかとか、そんな下らない事は本気でどうでも良い。
 俺は「本当なんですか!?」と問い返していた。しかし、帰ってきた答えは同じものだった。
 ていの良い嘘で俺を追い払ったりする気が母親さんには全く無いということが、その声音に含まれた心配や恐怖の感情からひしひしと伝わってきていた。もしも演技だとしたらアカデミー俳優も吃驚だ。本気で音信不通で家に帰らぬ娘を心配している、一人の親の声だった。
「あの子のことだから大丈夫だとは思うんだけど……」
 本当なんですか!? と問い返した俺に心当たりが無い事を悟った母親さんは、自分を励ますようにそう言った。
「俺っ、探してきます!」
 今日中に何も進展がなければ警察に届けるのだという母親さんの返事を待たずに、俺は踵を返していた。こんな雨なのに何とかと、そう呼び止めるような声が聞こえたような気がしたが、それ以上じっとしてはいられなかった。


「……何、やってんだよ!」
 強くなってきた雨の中、殆ど役割を果たさない傘をそれでも片手にして、自転車を漕ぐ。
 遠くでまた一つ雷が鳴った。雨はまだまだ止みそうに無い。背筋に走った悪い予感――連絡も無く家に帰らぬハルヒ。狂気の表情に、殺してやるという言葉。そして死人のような顔。自暴自棄になって、狂ったハルヒは朝比奈さんを――が現実のものにならぬように……いや、なっていない事を祈りながら、ペダルを漕ぐ足に力を込める。
 顔にきつく雨がぶつかってくる。だからどうした。
 急げ急げ。もう手遅れになっているかもしれないが、それでも急げ。
 この雨でも熱心な屋内系の部活は練習をしているだろう。門は開いてる。とりあえずは学校に行こう。ハルヒと朝比奈さんを最後に見た場所だ。俺の心当たりはそれくらいしかない。情けない。でも急いで行かないと。もし何か”いやなこと”があたっとすれば、何か痕跡が有るはずだ。有るな。有るなそんなもの。
「……くそっ」
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。大混雑して、上手く思考を纏めることができない。
 それでも体は動く。乗り捨てるようにして自転車から降りた。律儀に鍵をかけてしまう自分を恨めしく思いながら、既に疲弊している足を我武者羅に動かして坂を上る。門は開いていた。駆け込んだ。休んでいられない。何時の日だったか、その場所へ赴くのは帰巣本能に近いものだと自分で皮肉ったことがあった。忌々しい習慣が今は役に立つ。頭とは裏腹に、体は職員室でなかば盗むようにして鍵を拝借した後、部室への最短ルートを走っていた。
 そして、ほどなくしてたどり着く。
 窓ガラスを叩く雨音。遠くから聞こえてくる吹奏楽の下手糞なラッパ。無茶な運動の所為で悲鳴を上げる肺に酸素を送り込みながら、俺は荒れ狂う心臓が落ち着くのを待つ。
「はっ、はぁ、は……」
 この扉の向こうに、何があるのだろう。
 何も無ければ良い。ハルヒは長門か誰かの家に遊びに行ってそのまま泊まって、たまたま連絡を忘れていたとか、そんなオチが良い。
「はぁ、はぁ、はっ、あ……」
 むしが良すぎる話か? そんなことは無いだろう。無いはずだ。
 だから、何も”有”るな。
 そう強く祈りながら、扉を開錠した。かちり、という間抜けな音。緞帳は上った。緊張を沈めるのは無理だ。
 一歩を踏み出す。挫けそうになる心に、ムチを入れる。
 そして、
「――っ!」
 せめてもと歯を喰いしばり、俺は勢いよく扉を開けた――。
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by kyon-haru | 2006-11-12 05:14


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