涼宮ハルヒはしあわせ 第四話


「え?」
 何を言っているのか一瞬分らなかった。理解できなかった。
 豹変したハルヒの表情と剣幕に思わず一歩二歩と無意識に後ずさる。
「何を――」
 言っているんだ、と続けられなかった。
 ハルヒは呆然としている俺に詰め寄ってきて、物凄い力でネクタイを引っ張った。急激に首を絞めた苦しさよりも、恐怖の方が大きく沸き起る。
 俺の顔に自分の顔を近づけ、ハルヒはまた叫ぶ。
「どういうことなのよっ!?」
 耳を劈く怒声。 
「……い、いや、朝比奈さんに、呼び出されて」
 それに対し、俺は反射的に答えていた。
「部室に、行ってた」
「キョンの方から誘ったんじゃないのね……?」
「あ、あぁ」
 かくんと首を折るようにして頷く。
 言い訳をしたり、とぼけるといった選択肢は浮かばなかった。浮かぶ筈がなかった。
 鬼気迫るとはこういう事を言うのだろう。
 あの頃のハルヒでも見せたことの無いような、激怒も憤慨も通り越した感情の爆発だった。
 本能的に悟る。
 ヤバイ。ヤバイバイ。下手を打つな。恐い。誤魔化さず本当の事を言え。
「昼休みの間に、机に、手紙が入って、たんだ。その、退部のことで話が、って……」
 息苦しさに耐えて、声を絞り出す。
「……」
 ハルヒは濁った瞳を見開き、俺の瞳を覗きこんだ。
 決して視線を逸らしてはいけないと警鐘が鳴る。気持悪さと恐怖に負けそうになる。だが、逸らしてはいけない。その瞬間、咽喉元に噛み付かれてもおかしくないのだから。それほど――そう思うほど、今のハルヒは異常だった。
「――」
 心臓の鼓動する音が、早く、そしてやけに大きく聞こえた。
 ――ドクン、ドクン。
 耳の内に心臓があるかのような錯覚を覚える。締められ、渇いた咽喉。けれど唾液を飲み込むことすら出来ない。


「……そうよね。うん、そうに決まってる」
 ――時間が流れるのが遅かった。
 永遠にも感じた数秒間の後、ハルヒはぼそりと呟いて、何度も頷いた。
 何かに酷く納得したようだった。俺の言い分を聞き入れたのだろうか?
 般若のような形相が、元の表情に戻っていく。ネクタイを握る力をふわっと緩まった。いや、離した。
「げ、ほっ、ごほっ、……けほっ、つはっ、はぁ――」 
 首が解放され、スムーズに呼吸できるようになる。
 足に力が入らなかった。よろめき、方膝をついて、咽喉に手を当てて思わず咳き込んだ。
 ドクンドクンと、心臓はまだ高鳴っている。恐怖も消えず、鼓動も暫く治まりそうに無かった。
「……キョンは誰にでも優しいから、勘違いしてるんだわ、あの女」
 ふと、よく分らないことをつぶやき出す。
 怪訝に思う。いったい、何を言っている……? 
 気味の悪いことに、声音には何の感情も含まれていなかった。
 目線だけをゆっくりと上げて、ハルヒの顔を見る。
「キョンは私の物なのに、あの体で誑かして……」
 顎に手をあてて、ぶつぶつと。
 言っていることはオカシイが、その姿は一見落ち着いたように見える。
「……嫌がるキョンに無理矢理せまったのね」

 ――見えただけだった。

「ムカツクわね。ムカツクムカツクムカつく……ッ!」
 
 忘れてはいけない。
 コイツはとっくにぶっ壊れているのだ。
 
「……あの意地汚い雌豚、殺してやる」

 濁り澱んだ黒く昏い瞳。焦点をあわせず、ただ虚ろに何かを見ている。
 ――能面のような顔には、狂喜があった。
  
 
「うん。そうよ。それが良いわ。名案だわ」     
 ――ねぇ、キョン? 貴方もそう思うでしょ?
「……」
 ハルヒは虚ろだった焦点を俺に合わせて、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
 背筋を何かとても嫌なものが這い上がるのを感じた。その問いに、俺はなんと答えたのだろうか。
 馬鹿、そんなこと止めろ――?
 思わない。何考えてるんだ、お前――?
 そうだな。それが良いな――? 
 分らない。分りたくもない。ただ、血の気が引く音が聞こえたのだけを覚えている。酷く昔の記憶が瞬間だけ、脳裏を掠めていった。涼宮ハルヒはあれでいてとても常識的だと。人が死ぬことなんて望んでいないと。誰が言ったのか。知らない。でも、俺も同調していた気がする。
 でも、今は。
 世界が反転した。俺は何も言っていなかった。口は間抜けに半開きになったままで、言葉を発していなかった。呆然とハルヒを眺めている。正視していない。ただ、視界の中に入っていたのがソイツだっただけ。あやふやだった。
 でも、今のコイツは。
 本気でやりかねない。いや、コイツは本気で朝比奈さんを殺すつもりだ。本気で名案だと思い込んで、本気で俺に同意を求めている。いやがるのだ、狂気の渦に、俺を巻き込もうとしている。
「……っ!」
 俺は辺りを見回した。――灰色になっていないか?
 立ち上がり素早く視線を巡らせた。けれど、世界は正しいままだった。
 グラウンドの方からは運動部の掛け声が聞こえ、下校せんと脱靴場を出て行こうとする後姿、笑い声。
「何してるの、キョン? ねぇ、どう思う?」
 ハルヒが近づいてくる。能面に歪な笑みをはっつけて、三日月に吊りあがる口は骨で作った釣り針のよう。くすくすくすと笑いがなら、俺に手を伸ばしてくる。
「……来るな」
 本当に俺の物なのかと思うほど、低い声だった。
 ……気持が悪い。恐い。
 ……気味が悪い。逃げろ。
 本能も理性も、満場一致で同意見……本気でコイツには拘わってはいけない。
「……キョ、ン?」 
 ハルヒが何を言われたのか分らないと、怪訝な顔をしている。
 何だ、聞こえなかったのか?
 何度でも言ってやる。そして、いい加減にしろ。本当に手遅れになる前に。いや、そんなことはどうでもいい。そんな顔で俺に近づくんじゃない!
「何言ってるんだよ、お前。殺すとか意味わかんねぇよ、冗談にしちゃあ趣味が悪すぎるぞ!」
 俺はハルヒの手を思い切り叩いて払いのけ、大声で叫んでいた。
「じょ、冗談なんかじゃ……」
「……なぁ、止めろよ。そんな顔するなよ。そんな声出すなよ! 止めろよっ! 来るな、寄るな、触るな、馬鹿野郎っ!!」
 すがり付いてこようとするハルヒを避ける。
 伸ばされてきた手を、再び思い切り払う。痛いよキョン、という妄言。止めろ。
「止めろ、止めろ、止めろぉぉぉおおおっ!!!」
 叫んで、咽喉の震えるままにありったけの感情を吐き出して、俺は駆け出していた。
 上靴のまま外に飛び出して――すれ違う間際のハルヒの顔は死人のようで――全速力で走った。
 自転車に跨って漕いで漕いで家に着き扉に鍵を閉めるまで、一度も後ろを振り向かなかった。
 振り向けばそこにアイツが立っていて、にこりと微笑み、
――私の物にならないキョンなんか、死んじゃえ。
 狂気に任せ、凶器を突き出してきそうで。
 そんなものは幻覚だと言い聞かせても、夕飯も咽喉を通らず、まともに眠ることすらできなかった。電話は、鳴らなかった。
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by kyon-haru | 2006-11-07 18:45


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