何か事件が起きるのが決まって放課後なのは、終わりのSHRまで俺が真面目に学生している証拠だと思ってもらいたい。さて、というわけで今日も今日とて放課後の話である。
実家の冷蔵庫の扉を開ける気軽さと朝起きたら歯を磨く当たり前さで部室に顔を出したところ、室内には長門が定位置で毎度のごとく分厚いハードカバーのページを捲る姿がひとつあるだけだった。
そういやハルヒは朝比奈さんと一緒に新しい衣装を買いに行くとか言ってたっけか。
古泉は……古泉は……なんだっけ。まぁいいか。
「よう」
5円ハンサムスマイルをコンマ5秒で思考から吹き飛ばしつつ、軽く手をあげて挨拶をする。
「……」
長門は紙面に落としていた視線を顔ごとこちらに向けると、5ミリほど首を傾げた。
「ハルヒと朝比奈さんは買い物で今日は来ないってさ。古泉は来るかもしれないし来ないかもしれない」
「そう」
それだけ言うと、長門は視線を紙面に……戻さずに、栞を挟み静に本を閉じた。
え? 早くねえか?
慣例に従えばこれは部活が終了すると同時に帰宅するという合図である。時計を見ればまだ放課後に突入してまだ十分ほどでそれには幾らなんでも早すぎると思えが、だがしかし長門はゆるりとした動作で立ち上がり本を棚に戻してしまう。
……なんだろう、何か急な用事でも思い出したのだろうか。それとも、あー、俺と二人きりが嫌なのだろうか。
もしも後者だったらハラキリも吝かではないと密かに覚悟を決めていると、
「オセロとチェス、どちらがいい?」
本とは別の、玩具のたぐいが収められている棚の前に立った長門がそんな事をたずねてきた。
介錯は誰に頼もうかというアホな心配から現実に戻ってきた俺は心中でほっと息をつく。
どうやら考えた二つのどちらの理由で帰宅するのでもなく、それどころか長門は俺と一緒に遊ぼうとしてくれているらしい。
驚きやら嬉しさやらを覚えつつ、長門の定位置の正面に腰掛ける。
「どっちも勝てる気が一ミリもしないな」
オセロもチェスも最善手というのがあり、お互い交互にそれを選択し続けると必ず引き分けになるという。
そういうわけでチェスの世界チャンピオンとAIの勝負は引き分けになったのだが、勿論俺のチェスの腕前は高校生そのものだし、長門の方はそのAIが足元にも及ばない頭脳をもっているわけで。
「もっと……そうだな、運で勝負が決まるやつにしよう。インディアンポーカーって知ってるか?」
「知っている」
棚からトランプを取り出した長門は、席に着くと見事な手つきでそれをきりだした。
機会があればマジックの一つでも覚えさせてやろう、などという小さな野望を抱えつつ、勿論数字が書かれた方が見えないようにトランプを一枚受け取る。
やろうと思えば自分の手元にキングが来るようにするくらい長門には朝飯前だろうが、そんなことは絶対にしていないと確信しながら、
「よし。それじゃあいくぞ。いちにの、さん」
二人同時に相手にだけ数字が見えるようにトランプを額にひっつけた。
「……」
「……」
うん。
トランプを額にくっつけて微動だにしない長門という光景はそれなりにオツなのだが、
「……」
「……」
よりによってエースとは。しかもハートのエースでどこか可愛らしくもある。
すまんな。幾らなんでも引き分けはあるまいて。この勝負俺が貰った。
ふふん、と鼻にかかった笑いをひっさげつつ、
「長門、降参したほうがいいぞ? 悪いがお前が勝つ可能性はまったく無いな」
「あなたこそ降参したほうがいい」
「ほう。そんな手札でたいした自信だな。後悔してもしらないかからな」
「しないから平気」
「本当の本当に降参しなくていいのか?」
「……いざ尋常に」
「……いいぜ。そこまで言うなら勝負だ」
駆け引きの間、無論長門の表情は変わることはなかった。
俺の言葉がはったりか真実なのかくらいは簡単に見極められるだろうに、ふふふ、長門、愚かなやつめ!
「さぁ、いちにの、さん」
そうして互いの手札が自分の目に触れることになり、
長門の目にはハートのエースが、俺の目には、
「あぶねぇにもほどがあるぞ……」
ハートの2が。
確かに2に負ける確立は6%とかそこらであり、長門に自信があったのも頷ける。だけどもな、
「俺の勝ちだな」
「不覚……」
内心で息をつく。しかしなんて低レベルな争いなんだ。
「それじゃ負けた長門にはしっぺを、」
できる俺ではないので、……しないからそんな目で見るなよ長門。
「……じゃなくて、茶でも淹れてもらおうかな」
「了解した」
言うと立ち上がり、ちょこちょことした足取りでポットのところまで歩いていく。
その後姿を見ながら、長門のメイド服姿を想像して――ちょいとばかし向こう側の世界に飛び立っている間に、目の前に控えめなしぐさで茶のみが置かれていた。
ほかほか湯気をあげるそれを一口、ずずずっと――
「あちぃ!」
そしてしぶい! タバコをふかす舘ひろしのごとくしぶい!
咳き込みながら空気を口内に循環させ、なんとかしびれた舌を癒そうと試みるが、それぐらいでどうにかなる熱さじゃないぞこれは。
「けほっ、こほっ」
口元を手で覆いつつ眦に少しばかり涙を貯めつつ、対面に戻った長門を見やる。
温度の調節を失敗してしまったとか何とか言ってるが、その表情と瞳に浮かぶのは俺にしか分からない「悔しい」だ。
悔しいのか、長門。それにしてもこれは酷いんじゃないでしょうか。
舌の痺れを我慢して口を開く。
「……長門」
「なに?」
「もうひと勝負するか」
かくんと頷いて肯定するその負けず嫌いに、
「俺が勝ったら、これふーふーしてもらうからな」
断固そうさせてやるという決意で再びトランプを手に取って、いざ尋常に。
――そして俺の目の前には、スペードのエースを額にはっつけたおちゃめな宇宙人。
「……」
何をどう言えば良いか迷う俺に長門はざわ……な勝負師の瞳で、
「わたしが勝ったら、」
「ん?」
「次の休み、一緒に図書館に」
「いいぜ。お安い御用だ」
「降参したほうがいい。その手札ではわたしには勝てない」
「えらい自信だな。そんなに俺の手札は低い数字なのか?」
「それはもう」
ここまで言い切るぐらいだから、もしかしたら俺の手札もエースなのかもしれない。
引き分けの場合賭けの内容はどうなるのだろう。無効になるのだろうか。
……それはとても残念無念、勿体無いような気がして、
「分かったよ。降参だ」
肩を竦めて手札を下ろした俺の目の前には、あろうことかクラブのキング。そして、
「………………」
三点リーダを大行進させながら、己のエースを見つめるはったりキング。
その瞳が茫洋と動いて俺を見つめた。なぜ? と問いかけられているような感覚。なぜってそりゃあ、なあ?
「なにはともかくお前の勝ちだからな。今度の休みっつうと土曜日か。午前十時に家に迎えに行くからな」
負けたほうが良い褒美をもらえると分かっているのに、わざわざ勝とうとする俺じゃないってことさ。明日にでも古泉に旨いカレー屋の情報を聞き出すことにしよう。
了解したと何時にもまして小声でぼそっと呟いた長門は、やおら俺の茶のみを手に取ると、ふーふーと小さい唇で懸命に息を吹きかけだした。
「勝ったんだからそんな事しなくていいんだぞ」
「そうではない。単にこうしたいだけ」
「そっか……ありがとな」
「良い。お安い御用」
「違うさ。いや。違わないけど、とにかく色んなことにたいして、ありがとな」
適温で淹れなくて正解だったとかなんとかいう小声が聞こえたような聞こえないような、そんな気がした。
「土曜日、楽しみだな」
「……とても」
いまさらだが、ちっとも事件じゃなかったな、こりゃ。