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●<その5ですよ! 2/2

 おばあちゃんに「まだ来ちゃいけないよ」と笑顔で送り返されて安堵しているとお花畑だった世界が暗転した。
 ふらふらゆらゆらぐらぐら。
 真っ暗闇の世界。上下天地左右東西方角の感覚全部が曖昧であり、太陽光が届かない地球の影で宇宙遊泳しているような感覚だった。
 無論そんなすごい体験をしたことはないので想像だが、ともかくそれくらい体も意識とふわふわと揺れているのである。
 いい加減脳挫傷一歩手前の脳みそで記憶はあやふやだが、多分本日二度目の体験。だからってこんなもん慣れるはずもなく、それでもまた明りは無いかと視線を巡らせる俺は無自覚の冷静沈着かもしれない。
 しかし……それにしても側頭部がいてぇ。刹那にぶっ飛んでくるパソコンケースの残像が網膜に残っているが、それが何処にあったとか誰のものだとかは分からなかった。この記憶の朧さはそれが原因じゃなかろうか。あんなアルミケースのごっついもん喰らったら普通死ぬだろう。ということは俺はやっぱり死んでしまったのか――などと思考をループさせていると、
「お……」
 うっすらとしか見えないが、再び光源があるのを発見した。
 四角形に切り取られた窓のようなものから、夕焼けのような茜色の光が発せられている。相変わらず茫洋としていてい頼りない明りだが、引き寄せられるように近づいていくにつれて、光はやはり視界どころか世界一杯に広がっていき、

「――ふぅ」
 まぶしさに目と閉じた。次の瞬間足の裏にしっかりとした地面の触感を感じて、息を吐く。もちろん服だって着ているし、天地の感覚だってばっちりだ。
 坂を上るときなどは鬱陶しい重力を今は頼もしく感じながらゆっくりと目を開くと、
「ん……」
 現在地は文芸部室と同じくここ一ヶ月お世話になりっぱなしの一年五組の教室だった。
 ゆらゆら漂っているときに見つけた光源の正体を理解する。誰もいない教室。窓から差し込む夕日はオレンジに血を混ぜたような濃厚な茜色をしていた。
 影を長くした主のいない机たち。午後五時を過ぎたあたりをのろのろと動いてる時計の針。誰かの忘れ物だろう、教卓の上に一冊のノートがぽつねんと置かれている。
 ――ふと、郷愁を感じて首をひねった。
 数時間前までここに居て授業を受けていたというのに、ひどく久しぶりにこの教室にやって来たような錯覚を覚える。そんなに学校に愛着を持っていただろうか俺は。入学して一ヶ月と少し。愛着を持ち始めてもおかしくない時期ではあるが、生来の勉強嫌いの俺は勉強が姿かたちを持っていたらぶん殴ってやりたいくらいだときていて、帰巣本能に従うとすれば足を向けるのは文芸部室の方のはずだ。
「……」
 どうやら頭のエンジンの回転数がまだまだのようだ。
 ものさびしい雰囲気にノスタルジックな気分になりつつ、とりあえず窓際の後ろから二番目の席に腰を落ち着けた。
 肘をついてしばらくぼんやりとしてみる。時計の針は五分も進んでない。何時もはみくると一緒に下校している時間だな。……そういえばみくるたちはどうしただろうか。俺が涼宮にドナドナされて家に直行した後、あいつは――って、あらら?
 そもそもだ。先ほどの文芸部室しかり、俺ってばどうして、
「学校に居るんだ?」
 自分の海馬に問いかけてみるが、もちろん答えは返ってこない。記憶の海は冬の日本海のようにごうごうと時化模様であり、そこに潜るには俺の水泳能力は聊か能力不足の感が否めない。つまり思い出したいのだが思い出せないのである。
 ならば悩んでも無駄だな。おでんの精霊が居る世の中だしこれくらいの不思議があってもおかしくない……だろう。
 我ながらいい加減にも程があるが、無駄な労力を使わないのが俺のジャスティスだ。
 さてさて、何時までもこうしててもしょうがないな――と、そろそろ帰宅するかと腰を浮かせ、
「……変だな」
 教室の一箇所に違和感を感じて、そこへと近づいていく。
 黒板。黒板だ。教室に絶対存在するでかい黒の板きれの右隅の、日付と日直の名前を書くスペース。本日の授業は終了しているので日付はもちろん明日のものが書かれているが、その下の日直の名前の部分。そこがおかしいのである。
「こんなやついたっけか」
 比較的はっきりとしている授業中の記憶が正しければ本日の日直は出席番号が一番後ろのヤツが務めており、ならば明日の日直は出席番号一番のみくる……つまり「朝比奈」のはずなのだが、
「朝倉?」
 そこにはとめはねを丁寧にしかし女らしい丸みも持っているという見事な文字で「朝倉」と書いてあるのだ。
「ひ」より前なのだから「あさくら」と読むのだろう、恐らく。
 しかし……こんな苗字のヤツうちのクラスに居ただろうか? それどころか学年、学校に居ただろうか? 後者二つにはまったく持って自信が無いが、前者にはちょいとくらいの自信はある。名前を覚えていないクラスメイトはまだ若干名存在するが、入学したての出席番号で並べられた席順で、みくるの前には確かに机は存在しなかった。
 だとすれば……これは悪戯だろう。みくるの乳のでかさに嫉妬した貧しい胸の持ち主の嫌がらせとかなんとか馬鹿なこと考えていないで、さっさと書き直しといてやろう。
 苗字がたった一つ。ただそれだけで存在しないヤツがそこに存在しているような妙な感覚。少々不気味だ。
 黒板消しを手に取る。掃除をさぼった俺が言うのもなんだが、おい、もうちょっとチョークの粉丁寧に払っておけよと文句をつけたいほどのばっちさ。……ええい、ここまで来たんだからこれの掃除もしてやるか。後ろの小黒板のと合わせて窓の外でばんばんやりゃ少しはマシになるだろう。
 我ながら変なところで優等生ぶりを発揮していると、頬をやさしく撫でていく感触。まるでシルクの手袋をはめた貴婦人に手を添えられたみたいだった。散々言うがそんな経験ないけどな。ともかく、左からやってきたその感触の源へ目を向ける。開いた窓から夕焼けに紛れるように緩やかな風が吹き込んでいて、カーテンをそよそよと揺らしていた。
 なんだよ窓も閉め忘れてるのか――やれやれと肩を竦めた、その時である。
 窓ガラスの反射越しに、俺の背後に立つ人物の姿が見えたのは。 
 驚き半分疑問半分。教室の入り口に立っているそいつへと振り向いて、
「何でお前がここに居るんだ? それに、それウチの制服じゃねえか。どっからかっぱらってきた」
 思いついた限りの疑問をぶつけてみる。こいつ相手に驚くのはどこか癪だったし、そうして早口に捲くし立てないと……なんだ、思わず見とれてしまいそうだったからな。
 夕焼けを正面から受け止めているおでんの精霊りょーこちゃんは、清潔そうな前髪を揺らしながら雨雫を葉に湛えた紫陽花のような微笑を浮かべていて、初めて見たというのにウチの制服姿は特別似合っていて……ブリーツスカートから覗く白いハイソックスと太ももがかなり眩しかった。
 やっぱり普通に出会ってたらどきまぎのひとつでもしただろうなとひそかに感激する俺に向けてりょーこちゃんは青だった紫陽花を赤に変えて、
「えっとね、あたしもここの生徒だから。ううん……だった、から」
「はぁ?」
 よく分からないことを言いやがる。
 見た目は人間だから入学しようと思ったら出来んことも無いだろうが、過去形っていうのはどういうことだ。
 もしや俺が入学する前に卒業したオージーさんなのだろうか。精霊も通っていた北高校。校長もさぞや鼻が高かろう。ま、そんな荒唐無稽な話なんてあってたまるかだがな。涼宮あたりなら喜びそうだが。
 りょーこちゃんは「うふふ」と蟲惑的な笑みを携えて俺へと歩み寄り、そっと黒板消しを取り上げた。口をへの字に曲げている俺、次いで黒板の朝倉という文字に視線を移し、
「あたしの名前は朝倉涼子っていうの」
 いまさら自己紹介をおっぱじめ出したときたもんだ。 
「初耳だな」
「うん。言ってなかったもんね」
「……そういや俺の名前も言ってなかったな」
 かなり間抜けだが、いまさら自己紹介が必要なのは俺も同じだった。思い返せる限りそうしてみるが、出会いからしてめちゃくちゃだったし、気絶するは失神するわでまともにこいつと面と向かったことは無かったはずだ。それどころか意味のある会話すらしていないような気さえする。
 チョークをひとつ手にとって、俺は最近ほとんど呼んでもらえない本名を書き連ねた。
 りょーこちゃん改め朝倉は「へぇ」と関心したような息をひとつ吐いて、
「なんだか……どことなく高貴な感じがする名前ね」
「佐々木みたいなこと言うんだな、お前」
「佐々木?」
「あぁ……中学ん時の悪友だよ。あんまり気にすんな」
 そうするわ、とくすくす笑い、朝倉もチョークを手に取った。
 お前の名前は書いてもらわんでも分かってるぞ、と思いながらも何をするのか見守ってやる。
 かつかつかつ。小気味よい音とともに、日直の朝倉という文字と同じ筆跡で俺の名前の隣に書かれるカタカナ三文字。
 ――キョン。
「ね、あなたってこういう渾名じゃない?」
「……よく分かったな。本人の預かり知らんところで勝手に広まって、勝手にそう呼ばれてるけど、残念なことにそれが俺の渾名だ。親までキョンって呼びやがる」
「ふふ。ね、じゃああたしもそう呼んでいい?」
「好きにしたらいいさ」
 別に呼び方くらい何だって良い。そりゃ見知らぬ野郎にいきなり「ヘイキョン!」なんて呼びかけられたらメンチのひとつでも切ってやるが、知り合いなら話は別だ。動物っぽいとかは置いておいて、渾名ってのはたいていの場合親愛の情が込められてるもんだからな。
 だがしかしね、
「キョンちゃん」
「それはエヌジーだ」
「えー、あたしのことは涼子ちゃんで良いからキョンちゃんもキョンちゃんで良いと思わない?」 
「お前のことは一生朝倉って呼んでやる」
 これは一体なんの羞恥プレイだ。俺のことをそう呼ぶのは親戚のおばちゃんだけで十分だこのやろう。
 睨み付けたつもりだがてんで迫力がなかったらしく逆に睡蓮のような微笑みを返されてすごすご視線を外す俺だが、さすがにちゃん付けは簡便してもらいたい。
「じゃあキョンくん」
「うむ。よろしい」
「じゃああたしは涼子ね」
「それはよろしくない」
「えー」
「えーでもないし、びーでもない。そんな簡単に女を下の名前で呼べるかってんだ」
「でもす……じゃなくて、あのかわいい子のことはみくるって呼んでたじゃない」
「いや、みくるは付き合い長いからし幼馴染だしな……」
 つうか何だこの初心なカップルみたいなやり取りは。
 反射的に初めてみくるを「みくる」と呼び捨てにした時の甘酸っぱい記憶がよみがえりそうになって、慌てて蓋を閉めてお札をはって封印した。
「み、みくるは良いんだよ別に」
「ほー、ほー」
 焦る俺の内心を見透かしているかのように朝倉はにへにへと笑っている。
 ――このアマあなどれん。俺の周りには居ないタイプだ。
 これ以上みくるのことに突っ込まれてまたるかとファイティングポーズをとって身構えるとさらに笑われてしまったが、……ま、女はぐしゅぐしゅしたりヒスるよりは笑ってる方が良いってことで落ち着いておこう。
 朝倉は俺の荒ぶるフラミンゴの構えがよほどツボったのか腹をおさえて笑いながら、
「ふふ、うふふっ。何であなたが選ばれたのかあの頃のあたしにはいまいち理解できなかったけど、今なら分かるわ。……あなたは根っこに誰よりも人を惹きつける魅力を持ってるのね。ちょっと変わっただけでこれだもの」
「よく分からんが褒めてくれてんのか?」 
「ええ、そうよ。あたしも精神病にかかりそう」
「え……? お、おい、いきなり悲しいこと言い出すなよ」
 近くに心療内科あったけなぁ、と真面目に悩む俺の心配をよそに朝倉はうふえへ笑いつつ眦に浮かんだ涙を拭っている。
 ほうほう。精神病うんちゃらは冗談なのか。
「冗談じゃないんだけどね……あぁ、本題を忘れちゃってた」
「本題?」
 鸚鵡返しに口を開いた瞬間だった。
 今の今まで楽しそうに嬉しそうに笑っていた朝倉はもじもじと体を揺らすと、ふっと立派な眉毛をハの字にたれ下げた。
 教室内に充満する侘しい空気。夕焼けと夕闇に半身ずつを染めた朝倉は、世界にたった一人ぼっちになってしまった幼い少女のような不安顔を浮かべ、吐き出す言葉が壊れ物であるかのようにゆっくりと大切に口を開く。
 真剣な話題だと察知して、俺も佇まいを正した。
「んとね、難しい話をしてもあなたには分かってもらえないと思うから単刀直入に言うけど」
 目が合う。瞳の中にお互いの姿を映しながら、まるで想いを告げる片思いのように。
「あたしが居たほうと居ないほう、どっちが良いと思う……?」
 ――雰囲気に割には答えに悩まない質問を、おっかなびっくりと。
 どんな奇想天外な話かと思ってみれば拍子抜けだ。俺はあからさまに何言ってんだこいつという顔をわざと浮かべてやり、やれやれもため息を同じく意図的に吐いて、その仕草に不安を募らせていく朝倉に向かい、
「お前はどうしたいんだよ」
「えっと」
「お前の好きなようにすればいいだろ」
「あたしは……もう少しこのままで居たい、かな」
 だったら何を不安に思うことがあるんだろうか。
「んじゃ、そうしたら良いさ」
 今夜の献立を発表する母親の気安さでそう告げて、俺は黒板に書かれたままの自分の名前と渾名を適当に消した。黒板消し自体の掃除はもうやってやる気分じゃない。変わりに朝倉の文字のとなりにアホと書き、矢印で結んでやった。
 ほんと、何をアホなこと言ってるんだか。
「これは受け売りだけどな」と、これから述べる台詞の恥ずかしさを誤魔化す為の布石をうち、きょとんとしている朝倉の鼻をぎゅむっと摘む。とたん「はにふふほ!」という抗議の表情が浮かんで、俺は笑った。良いねその顔、ユニークだ。
 俺はこの話をしてくれた超常識人に心中で感謝をしてから、笑いながらもなるべくさりげなくと気をつけつつ、
「この世に居てはいけないヤツなんて居ないんだ。大事なのは居たい理由を見つけることで、居ることの意味を知ろうとすることだ。自分が気に食わなきゃ自分を変えれば良いし、世界が気に食わないなら世界を変えれるような自分に変えれば良い。要は……全部自分次第ってことだ」
 息継ぎ。
「お前が居たいんならそうしろよ。何がお前を居たいと思わせるのか知らないけどな」
 大きく息継ぎ。こんなんだからたまに苦労好きだとか保父さん候補生だとか言われるんだなと思いつつも、生まれつきこの性格なんだから仕方ないと諦めて。
「……無茶苦茶な知り合い方だったけどな、一応縁があるってことで、宿がねえなら寝床くらい貸してやるから」
 最後の一文だけはそっぽを向きつつ言い終えた。
 精霊が飯食うのかどうかは知るところじゃないが、寝るってことだけは既知の事実であり、それならば毛布や布団の世話くらいしてやってもいい。家にはもうやたらでかい三毛猫がすでに一匹居るからな。いまさら増えたところでどうってことない。
 ……ということにしておこう。まともに会話して情が移ってしまっただなんて本音、恥ずかしくって言えるはずがないだろう。
 朝倉は天恵を受けた太古の農民のような感激具合で、手と手を合わせ瞳を潤ませるだなんて漫画みたいな反応をし、
「だ、大丈夫! あたし基本的には食事も睡眠も排泄もしなくても生きていけるし、だけど家事はできるし、あ、あの、お得だから! 徳用デラックスだから!」
 多分自分でも何を言っているかよく分かってないんだろうおばかな台詞を一生懸命俺にぶつけてくる。
 それを適当に「ほいほい」と受け流しつつ、今は家を空けている両親が帰って来る頃には自力で宿を確保してもらわんとなー、と将来の展望を考えていると、
「本当に……ありがとう。こんなのあたしのエラーに付き合ってくれて」
 俺が英語が苦手なのを知ってか知らずか変なカタカナ語が耳をうち、なんだそりゃ、と言い返そうとした時には「ぎゅむっ」と抱きつかれていた。
「ちょ、おいっ!」
 こらこら。いきなり何しくさる。は、はは、恥ずかしいだろおい。ちくしょう。何で女って生き物はこんなにもやわらかくてあったかいんだ。おい、えへへ、うふふ、じゃねえよ。胸板に頬寄せてすりすりしてんじゃねえよ。や、やめて! と言いたいのだが指先がぴくつくだけで体はてんで動きやしない。
「えへへー」
 お前はマーキングする動物かよったく……もう、ええい、離せと言うのに。遊びの王様風に離せ! と言うのに。
 とかなんとか暫く桃色合戦に励んでいると、もうかなり日が翳ってきた。気の早いお星様が我こそが一番槍なり! という威勢の良さでまだ暁が残る空に輝き始め、そろそろ俺の腹も戦が出来ぬくらいに緊急事態である。
「……腹減ったから帰ろうぜ。早速何か作ってくれよ」
「うん! がんばっておいしいおでん作るから!」
 やっぱりメニューはそれなのね。
 邪気の無い苦笑が自然に湧き出る俺から離れて、朝倉はアンゼリカのような弾ける笑顔を浮かべて、見事な動作でウィンクひとつ。
「荷台、乗っけてね?」
 晩飯の対価と考えればそれくらいお安い御用だと、俺は任せとけと胸をたたいた。
by kyon-haru | 2006-06-12 16:39


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