人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ぼくはわたしになる。

 二年生に進学したての、朝の登校時の事だった。
 何時ものようにえっさらほっさらと学校に向っていると、同じ北高の女生徒が自転車を停め、その傍らに座り込み、なにやら難しい顔をしているという場面に出くわした。
 何してるんだろう? 興味本位だった。自転車を漕ぐスピードが遅くする。
 そうしてよく見遣れば、その生徒の自転車のチェーンが切れている事に気がついた
 なるほど、とすぐに理解する。つまりまだ学校には距離があり、周りに自転車屋も何も無いところでチェーンが切れてしまい、さらに自転車を此処に置いて歩いて行けば遅刻確実で彼女は困っていると。
「ちょっと見せてみて」
 と、近くに自転車を停め、声をかける。チェーンが外れたならまだしも、切れたとなるとどうしようもないのだけれど、だからといって困っている女の子を見捨てるような鬼畜な性格もしていない。
 女生徒はいきなり男に声をかけられて不審者か何かと警戒したようだが、俺が同じ制服を着ているのを見てほっと息を吐き出した。暗い面持ちで、自転車を指差す。
「走ってたら急にチェーンが……」
 言って、そっと横に移動する。俺は今まで彼女が居た場所に屈みこみ、見事にギアから外れ、円状から紐状へとに退化したチェーンを見遣った。
「うーん」
 ……油が切れているし、かなり錆び付いている。長い間使っているのに、整備はあまりしていようだった。経年劣化。寿命かな、こりゃ。今日でなくても、近いうちに切れていただろう。

「あの……駄目ですよね」
 うんうん唸っているところに、横から女生徒が沈んだ声がかかる。
「言い難いけど、そうだね。それに……今日でなくても、近いうちに切れてたと思う」
「……そう、ですか。困ったな」
 女生徒は殆ど泣きそうな顔で俯いた。華奢な肩が震えるのにあわせて、肩口で切りそろえた黒髪が揺れる。新入生なのか、真新しくアイロンがパリッと効いた制服に、新品同様の靴を履いていた。うむ。入学そうそうこんな目に遭えば、そりゃ泣きたくなる。春の気持ちの良い陽射しさえも恨めしく感じてしまうだろう。
 さらに今気がついたことだけれど、この後輩の女生徒は――はっきり言って可愛らしい顔立ちをしていた。年中V8エンジンをフルスロットルで吹かしているような誰かとは正反対の、清楚でおしとやかそうな雰囲気。今現在俯いて目尻に涙を溜めているその表情は、はっきり言ってブッチャーも裸足で逃げ出すような反則技だ。
 となると俺が何をするか何て事は考えるまでもない。
「とりあえず、君の自転車は此処に置いておこう。修理できないし、チェーンが切れてる自転車を盗むなんて変な泥棒も居ないだろうし」
 二人して立ち上がる。女生徒は俺の言葉に「はい」と小さく返事して、自転車の前カゴから鞄を取り、念のためとキーをロックした。

「すいません。ご迷惑をおかけして」
「いや、こちらこそ何も出来なくてごめん」
 頭を下げあう。あぁ、礼儀もきちんとしているなぁ。なんて感動してる場合ではない。のんびりしていると本気で遅刻してしまう。
 しかも女生徒は「歩いてどれくらいかかるなぁ……」と小さく呟きつつ、どんどん顔にかける斜線を濃くしているのだから。
「それじゃ、行こうか」
 自転車に跨って、俺は後ろの荷台をぽんと叩く。
「え?」
 俯いていた顔を上げて、女生徒は昨日食べた麻の実の味を思い出そうとしている桜文鳥みたいに首をかしげ、俺の顔を見た。目尻に溜まっていた涙の雫が、光に輝き、はじけて消える。もし辞書の妖精の項目について説明文を書けと言われたら、俺は朝比奈さんとこの娘の二人の事を書くだろう。
 俺はやぶからぼうだったね、と前置きをして、
「二人乗り。したことない?」
 出来る限りの笑顔で、そう言った。

 ボーイズⅡメンの『エンドオブザ・ロード』を頭の中でリフレインさせながら、ハイキングコースかという坂を一気に――とはいかないまでも、いつも以上に気合を入れて突き進む。
 一人でもキツイというのに、今日は二人なのだ。だが枝に可憐な蝶がとまったからといってへこたれる大木があるだろうか。あるわけない。しかも大木は自ら花を咲かせて、蝶を自分の枝へと招待したのだ。俺には大木より盆栽がお似合いだとか言うな。
 ぜぁはぁ悲鳴をあげる肺に活を入れて、自転車を漕ぐ漕ぐ漕ぐ。
 疲れた素振りを見せたらだめだ。気を遣わせないように。
「そんな。良いです。歩いて行きます」「これ以上ご迷惑をおかけできません」「……二人乗り、したことないんです」と、遠慮する彼女を「平気平気。先輩の好意を無碍にしないでよ」とかハルヒあたりが聞いてたら爆笑しそうな台詞で何とか説得したのだから。
「もう少し。何とか間に合いそう、だね」
 声が切れてしまったのは息が切れたからではない。いや、正直息はみじん切りだったのだが、とにかく落ちないようにしっかり捕まってて、という説明に対して女生徒がとった行動が”俺の胴に両腕を回してがっしりと抱きつく”だったからであって、そちらの方に意識を向けると――やっぱり息が切れたでいい。語るべからず。心の引き戸にそっとしまっておこう。引き戸には『青春』とまるっちい文字で書かれている。


 谷口とか国木田とか古泉とか……何よりハルヒに見られませんように、という願いは遅刻ぎりぎりにすべり込む、という時間帯が解決してくれていた。と思いたい。
 見知らぬ生徒達からの奇異というか好意というか、主に男子生徒からの殺意の視線を多少集めたが、そんなものは些細な問題だ。何か文句あるヤツはかかってこい。長門に頼んで叩き潰してやろう。
 駐輪場までやってきた。ふぅ、と息を吐く。足の中では乳酸が歌えや飲めやの大騒ぎをしているが、ぐっと堪えた。心地よい疲労というかなんと言うか、とにかくそういうもんだ。
「……着いた、よ?」
 と、一向に女生徒が手を離さないし自転車から降りてない事に気がついた。
 声をかける。と、女生徒は慌てて手を離して自転車から降りると、
「す、すいません。その、ずっと目瞑ってて、着いたことに気がつかなかったです」
 顔を赤くしながら小さな口を忙しなく動かした。手をバタバタさせるその姿は非常に可愛らしいのだが、初めに感じた清楚でおしとやかな雰囲気、には相反するものだった。いや、ナノミクロンの文句もないけれどね。
 こほん、と咳払いを一つ。
「きみの自転車は帰りに拾おう。放課後に門のところで待ってるから」
「い、いえ、良いです。本当にそこまで先輩にご迷惑をおかけできないです」
「良いって。のりかかった船だから。最後まで先輩面させてよ。面子を保つ、と思ってさ」
 またハルヒあたりというかハルヒが聞いてたら録音したあげく何度も繰り返し再生されて、そのたびに大爆笑されそうな台詞だ。よくもまぁこんなにスラスラ出てくるものだと自分でも驚きだが。

「それじゃ、放課後に」
 それからもう直ぐ予鈴が鳴っちゃうからとか何とか言って女生徒を説得して、俺たちは下駄箱で分かれた。何度も何度も「ありがとうございます」と頭を下げるあの娘は本当に良い娘だ。
「あの、先輩のお名前は」
 別れ際、訊ねられる。そういえばお互い自己紹介も何もしてなかったな。遅刻しそうだってことで必死だったから。 
「キョンで良いよ。みんな、そう呼んでるから」
 好ましい人には渾名で呼んでもらいたいじゃないか。と、そういう事にしておこう。しておかないといけない。
「本当にありがとうございました。ええと、キョン先輩?」
「あぁ、うん。良いって良いって」
「はい。ありがとうございます。あ、私の名前は――」
 はにかみながら笑う彼女に暫し見惚れてから、俺は教室に向った。


 ――そうして彼の後姿が消えるまで見送った。
 私の名前はいつきです。
 そう聞いて、彼は俺の知り合いにも同じ名前のやつが居るな。けったいな男だけど、と笑った。
 そのけったいな男が今年度から居なくなったと知ったら、彼はどう思うだろう。
 悲しんでくれるだろうか? 悔やんでくれるだろうか?
 一言あってもよかっただろ、と怒ってくれるだろうか?
 ――そうだったらいいな。ううん。きっと全部想像した通りの行動をとるだろう、そういう彼だからこそ。

「さようなら、僕」

 こんにちは、私。
 他の新入生よりも一歳だけ年長な私は、ちいさくちいさく呟いた。
 さて。どうやれば上手に二回目の入部ができるかな……。
by kyon-haru | 2006-06-26 00:55


<< ●<その6ですよ! あしうらゆかい >>