全部ほったらかしにして、逃げ出して、引き返せと囁く声は確かにあった。
それはパンドラの箱めいていた。しかし、それでも開けたのだ。開けると決めたから。
勢いよく開けた扉の先を、
「っ!?」
ドクンとひときわ大きく高く跳ねる心臓を強引に押さえつけ、
俺は目を閉じずに其処を睨みつけた。
「つ、はっ!」
知らず止めていた息。爆発するように息を吐く。
眼前に広がる光景を視界に納めて、俺は気が抜けるのを感じた。
「……はぁ、はっ」
――部室の中には、誰も居なかった。
「ふ、ふう……」
もう一度息を吐く。がちがちに固まっていた体が一気にほぐれていく。
眼前に飛び込んできた光景を、ゆっくりと咀嚼するように認識していった。
意を決してやってきた部室――其処には、誰も居なかった。何度も視線をめぐらす。確かに誰も居ない。
……しかし、だ。
誰も居なかったが、室内は酷い惨状を呈していた。
「……なんだ、これ」
踏み入れようとした足は反射的に止まっていた。
入り口で立ち尽くす。誰も居らずにほっとした気持ちもあった。あったが、一拍遅れてそれに気がついて、そんな物は吹き飛んでしまった。
倒されたテーブル、椅子。団長席。掃除道具箱。
めちゃくちゃに壊れて基盤やケーブルが飛び出しているパソコン。ボードゲーム類。
飛び散って散乱したハードカバーの本に、ズタズタに切り裂かれたようにぼろぼろなコスプレ衣装に、罅が入っている黒板、割れた湯飲み道具。
「……」
酷い。高い震度の地震でもあったのかと疑う。ハリケーンが通り過ぎ去った後のような悲惨な状態だった。
何枚も割られた窓ガラスの隙間から、雨風が吹き込んできていて、水浸しにもなっていた。そのガラス片もあちらこちらに飛び散っている。
「……」
……目を覆いたくなる。
足の踏み場もないほどに荒れ果てていて、文芸部かつSOS団の部室は何時の日か感じた憩いの場なんて物から遠くかけ離れた空間になっている。
いったい、何があった……?
もしハルヒと朝比奈さんに何かあって取っ組み合いになったとしても、ここまで荒れ果てるワケが無い。変な能力があるとはいえ、体は普通の女子高校生なんだ。
「何なんだよ、おい」
雲に阻まれ陽光は届かない。薄暗さは室内の異様さを増しているような気がして、取り敢えず灯りを――と、スイッチを押して何の変化も無いので気がつく。
天井を見やれば、蛍光灯さえも割れていた。
無事、というのが適当なのかはわからないが、ともかく荒れていない場所はドアだけのようだ。そのドアも、今は見えない内側は傷やら何やらついているだろうが。
――悪い予感を感じられずにはいられない。
誰も居ない。けれど、確かに何かが有ったのは間違いない。
何せ、部室には鍵がかかっていたのだ。もしも見回りの用務員あたりがこの部屋の様子を見ていたとしたら、鍵なんかかけない。鍵をかけてもドアに「立ち入り禁止」とか何か張り紙くらいするだろう。
そしてこの部屋には普通の生徒は近づかない。稀に酔狂な輩――宇宙人連中を除く――がやって来た事もあったが、ソイツ等が見たとしたら職員に報告してなんらからの措置がとられているだろう。
だから。
「――ハルヒ、お前なのか」
これをやったのは、確実に部員の誰かだ。
その誰かも、正しくは一人しか居ない。狂気に任せて暴れまわりそうな奴。そうしてもおかしくない奴。
窓を割り、何か鈍器でパソコンをぶっ壊し、本棚を引き倒し、刃物で衣装を引き裂いただろうソイツは――おそらく、いや、ハルヒだ。
床に張り付く足を無理やりに、室内に進めていく。
ガラス片など怪我をしそうな物を踏まないように、触らないように、注意しながらテーブルやらを移動させて通り道を作っていく。室内に入ることで窓からぶつかってくる雨をどうせ今でも十分に濡れ鼠だと無視する。
「……無い、よな」
そしてざっと捜索する。
「……よし」
雨で流れてしまったかもしれないが、――血痕とかそういった物は取り敢えず見る限りでは無いようだ。刃物や凶器の類も落ちていない。
テーブルの裏や衣装にもまぎれていなかった。ガラス片が酷くて近寄れぬ場所は詳しく調べられないけれど、恐らくだが此処にはそういう嫌な物は無いようである。
しかし、だ。
スペースを作り、其処にパイプ椅子を一つ広げてそれに座る。こめかみを揉み解しながら、考える。
「――」
この部室の有様。此処で何か有ったのは間違いない。
それはおそらくハルヒが暴れた――というところ。
そして誰も居なかった、血痕も凶器も無かった、という事は殺傷沙汰は起こらなかったという事なんだろうか。
……起こらなかったのだろう、おそらく。そう、少なくとも此処では起こらなかった。
――ただ、それだけだ。
此処で無いだけで、別の場所で朝比奈さんは殺されたかもしれない。
昂った感情そのままにハルヒは部室で暴れに暴れ、きったところで落ち着き、鍵を閉めて下校――何らかの方法謀略算段かで行方を眩ました、というのが正解かもしれない。間違いかもしれない。中途半端だ。
確固たる物にするためには朝比奈さんに連絡が取れればいいのだが、学年違いの彼女の電話番号や住所は連絡網には乗っていないし、携帯の方は思い出せない。
月曜日まで待つなんて事は出来ない。……鶴屋さんに助力を求めれば良いのだろうか。彼女なら連絡先は当然知っているだろう。しかし、巻き込むんで良いのか。
それにだ。朝比奈さんの無事を確かめるよりもまず行方知れずのハルヒを探索した方が良いのではないかとも思う。
何の手がかりも無い。心当たりも喪失してしまったが、アイツの母親さんの不安に満ちた声を聞いた所為もあるだろう、どうしても想いはそっちに強く指向される。今日中に何も進展も無ければそれこそ警察沙汰になってしまうのだから――朝比奈さんにもし連絡が取れなかったら、彼女に何か有ったという事になってしまうから。
「はぁ」
ちくしょうめが、と。こめかみから手を離し、溜息を吐く。
度重なる激しい運動で熱していた体は何時の間にか冷え切って、その肺から押し出された空気だけが熱を持っていた。やけに熱いなと思って、とたん自分は独りなのだと何故か変に自覚する。それを拘泥も忌避もしない。
あぁ、もう。心中でひとりごちる。まったく今日は悩みに悩んで思考回路を酷使する一日である。それも答えの出ない事で悩むのだから性質が悪すぎだ。
「――」
悩む暇があったら行動しろとか誰かが言っていたような、おぼろげな記憶がある。その通りだった。今の悩みは行動で解決できる悩みだ。本当の本当に悩んでいても仕方ない。
「寒い、な」
茫然と呟く。遠く背後では、何度目かわからない雷鳴が轟いて、残っている窓と室内を震わせていた。
横殴りの強風に乗って進入してくる雨粒のいくつかが背中にぶつかって、弾けている。ぶるり、という悪寒は体の不調を訴える類のものだろう。
こっちの方もこのままじっとしていても仕方ないみたいだ。
風邪は決定稿だろう。肺炎になんぞかからなければ良いなと、うわべで己が身を心配しつつくしゃみをかましつつ、思考を纏め上げる。
――よし。決めた。決心する。兎に角日が沈むまでハルヒを探そう。何も見つけれなかったら、鶴屋さんの家を訪ね朝比奈さんに連絡を取る。
そして――朝比奈さんと連絡がつかなかったら、そんな最悪の場合は長門のところへ行く。
アイツなら誰が何処に居て何をしている、それも大事な大事な観察対象ならなお更詳しく知っているだろう。知らない教えないなど言わせない。アイツにばかり頼るのは悪いとか考えていた俺はもう居ない。何をしてでも吐かせてやる。
俯き頭をひねりつつ、唸る。
「アイツの行きそうな場所、か」
天候を踏まえて考えるとそう多くは無い。
俺の知らないアイツの買い物先だとか遊行先だとかは確実にあるだろうが、この雨の中泊りがけでそんなところに赴いて居るとは考えにくい。
交友関係が狭いのが救いだろうか。どこか人知れず野宿や安宿に身を寄せるなんてスリリングな事をしでかしているかもしれないが、あれでも女だ。
ならば、……ああ、なんだ、くそったれ、それなら長門の家が一番の候補じゃないか。
「はっ」
気が抜けて吹き出してしまった。自分が可笑しかったのかもしれない。
そう有ってほしいと願った折念が、長門の家にでも泊まりにいって連絡をたまたま忘れて、母親の呼び出しに応えないのは携帯の電源が切れたの何だのだったからだ。
もしハルヒが長門の家に居たなら、取り敢えず馬鹿野郎と頬をはってやろうと思う。
殺すとかふざけた事言いやがって、部室をあんなんにしやがって、親に心配かけやがって、と。
顔を見るのも本当は忌々しいのだと心の中で呟く声がするが、そうしてやろうと決める。
もし居なかったらそのまま長門に問いただせば良い。
――そしてもしハルヒが居て、なおかつ
あの女なら、殺したわよ
――笑いながらそう言いやがった、その時は。
――長門から聞き出した場所に居たハルヒが同じ事を言った、その時は。
俺は……俺は……、
「俺は――」
俺は――いったい、どうしようと、考えたのだろうか?
ワカラナイし、シラナイ。けれどそれで良い。その時はその時で、その時の自分に任せよう。
逃げるのも良いだろうし、俺がハルヒを――して、その後俺も……で、全部を終わらせるのも良い。
良いけれど、そんなものは考えない。いや、考えたのかもしれない。けどやはり、その時になってみないとどうなるか等確定できない。
そんなことよりも、だ。とにかく、今確かなのは、
「――あ」
不意にした足音とがたんという物音を不審に思い、俯けていた頭を上げたその先。
感じた人の気配。見回りの先生や、他の生徒だったら面倒な事になったなぁ、ちくしょう、と内心毒づきつつ、見やった部室のその入り口に、
「よか、ったぁ」
……俺と同じく濡れ鼠になっている朝比奈さんが、今しがたまでどうなったんだろう、何処に行ったんだろう、何が起こったんだろうと心を軋ませる要因だった朝比奈さんが――
「やっぱり、キョンくん、だったぁ……」
――ぐったりと気を失っているらしいこの一連の出来事の根幹であるハルヒを肩に担いで、俺の顔をみやり安堵の息を付いている、という事なのだから。
俺の体は自然に動いていた。
傍目からにも一目瞭然に、二人は何があったのか一人は気を失っているだろうで、一人は酷い格好で疲弊している。
問いただしたかった。昨日何があったのかと、叩き起こし、あるいはその今にも崩れ落ちそうになっている体を蹴っ飛ばして、根掘り葉掘り問いただしたかったさ。
けれどそうはしなかった。出来なかった。
「――っ!」
急いで駆け寄って、気が抜けたのか今まさに崩れ落ちようとする二人ともを、腕を広げて纏めて抱きかかえる。
濡れているとか関係ない。どしん、という予想以上に重い感触に倒れないように、足を踏ん張った。
「キョン、くん」
「大丈夫ですかっ。何があったんですかっ!?」
腕の中の蚊細い声の、倍以上の声で聞く。
想像なんて出来ない。二人ともに生きているのだから、良い結果なんだろうが、それでも思いもしなかった展開である。斜め上を吹っ飛んでいる。何がなにやら、近日中で一番ワケが分からない。
「わたしは、」
濡れぼそった前髪をおでこにはりつけて、朝比奈さんははかなく俺を見上げた。
彼女の吐き出す息が、冷たい体温と世界の中でもっとも熱を帯びていた。
「わたしは、大丈夫……」
――でも、という枕と茫然とゆれる瞳にぞっとする。
右腕の中のハルヒの顔色は青白く唇は紫にすらなっている。近くで見れば、口元に痣まであるのが分かった。
「涼宮さんが……」
じわりと、目元に浮かぶのは雨じゃない。
「ハルヒはどうなってるんですか!?」
逸り猛る気持ちが、音量調節という機能を無いものにする。
朝比奈さんの口元に耳を寄せながら、俺は声を張り上げていた。
「きのう――」
「昨日っ!?」
「……っ」
ふわっと、まるで背中に羽でも生えたのかのように。
昨日。その続きを発することなく、朝比奈さんもまた気を失った。ぐったりと俺にしなだれかかり、片方の支えを失ったハルヒの体が滑ろうとする。
「……いったい、何なんだよっ!」
怒鳴りながらも、腕はしっかりとそれを支えた。
泣きたいくらいに混乱しているが、感じる体温の低さにもっと泣きそうになる。
こんなに体温が低かったら死んでしまうんじゃないかと思う。何があったんだ、本当に。何で痣なんか作っていやがる。気絶していやがる。何時も何時も迷惑しかかけない。騒ぎばっかり起こす――あぁ、どうして俺は、コイツが居なくなるかもと想像しただけでこんなにも心が震えるんだ。くそったれ。ちくしょう。
「目を覚ましたら詳しく聞くからな……馬鹿」
囁く。目元から頬にたれていた雨をぬぐって、俺は先ほど作ったスペースにそっと二人を寝かせ、部室を飛び出した。
「このぉっ!」
隣のコンピ研の部室のドアをありったけの力で蹴破った。ばぁん、という威勢の良い音の向こうには整然と並ぶ黒いモニタ画面たち。誰も居らず、室内は荒れても居ない。当然だ。
「ふぅ、ふっ、は、はっ……!」
旧校舎のぼろいつくりに感謝しながら、俺は次に新校舎の保健室に走り、タオルと毛布を何枚かと体育の授業があるのに体操服を忘れた生徒の為の予備のそれを男子一着女子二着分見繕ってきた。休みだからと職務を行わず部屋だけ解放している教諭を恨めしく思いもするし、それで助かったとも思う。
……いったい今日だけでどれくらい全力疾走しただろう。一年分はしている気がする。
何人かの怪訝な視線がぶつけられたが、そんな下らないものに構っていられない。
毛布と体操服をコンピ研の部室に投げ入れ、SOS団の部室に戻る。
「っしょ、と……!」
二人は俺が部屋を出たときのままの格好様子で力なく硬い床に横たわっている。
まずはハルヒから慎重にひざの下と首の後ろに腕を差し込んで抱きかかえ持ち上げ、コンピ研部室へと運んだ。そっと下半身を地面に下ろし、上体を起こした格好でタオルで適当に雨を拭いてやった後、毛布でくるみ、ゆっくりと寝かせる。朝比奈さんもそれに倣う。
「何か暖が取れるもの……」
が無いのか、と視線をめぐらせてそれを見つけた。電機ストーブが二台部屋の隅にしまわれている。あの部長の事だから買ったのだろうとあたりをつけつつ感謝して、パソコン用に伸ばされている延長タップにささるコードを引っこ抜いて、ストーブのそれをさし込み、二人の真横に一台ずつ置く。
壊れてしまったドアの前にパソコンごと机を移動させて、鍵の変わりにし、窓際に行ってカーテンを閉める。
そこまでを本当に一息も付かぬうちにやって、蓄積されていた疲労があふれ出した。
「ずっ、ふぅ、すっ、ふっ、ふぅ、は、はぁ、はっ、は、ふぅ……」
再び熱を取り戻した体を床に落ち着けて、肩で荒い呼吸をしながら、心臓が落ち着くのを待った。
「厄日だな、今日は……」
からっからの咽喉でそう呟く。本当に肺炎になりそうだ。じんわりとしたストーブの温かみは、全部二人に向けている。
「――っ」
そのままへたり込みそうになる軟弱な自分を叱咤して、もう一度立ち上がる。
まだ足りないのだ。このままでは俺じゃなく、二人も酷い風邪かそれ以上をわずらってしまう。
だから濡れた服を脱がせて、体を拭いて、体操服に着替えさせるのだ。もちろん俺も。
……気後れ? する。してる。悪く言えば意識の無い女の子の服をひん剥くのだ。あぁ、そうだとも。恥ずかしいさ。だがな、申し訳ないとは思わない。無理やり気絶しているところを覚醒させるなんて出来ないし、命を守るためなんだから。
が、しかし。
「……」
取り敢えずは自分からやった。雨と汗でぐちゃぐちゃの服を全部脱いで、このとき後ろを向いてしまったのは生理的本能であるからして他意はないのだと何かに弁明しつつタオルで体を拭き、体操服に着替えた。
夏用だが贅沢はいえない。今は体が火照っているが、その熱が引けばとたん寒くなるのは分かってる。二枚しか毛布が無かったのは運命だとあきらめる。この際。上手く行かないのは此処のところの決まりだ。
寝ている二人に近づく。
「……ごめん」
すぅ、と息を吸い込み、それだけ囁いて、俺はストーブに手をかざしてしばし温めた後、朝比奈さんの毛布を捲った。
――濡れた制服が肢体にぴっちりと張り付いて、同年代の女性から良い意味で逸脱した輪郭とおうとつのラインを浮き彫りにしていた。盛り上がった二つの丘。うっすらと透けて見える下着の色が淡い桃色だと馬鹿な脳みそが認識したところで、両方の頬をひっぱ叩いた。
「アホか、俺」
もしくは最低。ぶんと頭を振る。
何も感じるな。早いこと済ませてハルヒにもしてやらないといけないんだ。
「すみません、朝比奈さん……」
ちょっとの間だけ我慢してください、と上体を起こし、上の制服を脱がせ、たいのだが上手く行かない。だらんと垂れ下がる腕に引っかかって抜けないのだ。
着せるときも同じ苦労をするのかと懸案しつつ、それでもテレビで見た老人介護の要領で何とか脱がせ、病的に白い肌をタオルでそっとぬぐう。ふと触れた肌はやはりぞっとするほど冷たくて、何があったのかと不安に思う。そして体操服の上をこれも苦労して着せた後、下も同じようにする。スカートはファスナーさえ見つければ、後は下げるだけなのでずいぶんと楽だった。
使ったタオルで長い髪を纏めるようにしてくるみ、そのまま枕の替わりにして一丁あがり。
再び毛布くにくるまれた幼い顔は、穏やかとはいかないがちゃんと呼吸もし、確かに生命の灯を感じさせていた。
「ふぅ」
と、一息ついて、ハルヒに向かう。
「……」
一日にも満たない時間離れていただけなのに、ずいぶんと久しぶりに出会ったような錯覚がした。
痣がある口元が痛々しく、どうしてか心がきりきりと痛む。青白い顔と紫の唇に、本当にどうしてか泣きそうになる。
「昨日、何があったんだよ、いったい……」
そんな事を言いたいのでは無かったのかもしれない。
「……」
ではなんと言いたかったのかは、分からない。分からないから、口をつぐんだ。
早くやってしまおう。聞きたいことは目を覚ましてからこんこんと聞いてやれば良い。
毛布を捲る。現れた肢体は、記憶よりも華奢なような気がした。こいつ、こんなにも細かったか……? 心の中でそう呟きながら、そっと上体を起こして、ほんの少し慣れた手つきで上の制服を脱がせてやって――
「……なんだ、これ」
――絶句した。
目を疑った。荒れた部室を見たときよりも、驚愕していた。体が震えるのが分かる。
何度か瞬きをしてもう一度見たが、それは変わらなかった。
……ハルヒの体には、赤黒い痣がいくつもあった。
殴られたものだと、直感的に悟る。それは口元のものにしてもそうだ。ちょうど握りこぶし大の大きさだった。白亜のように滑らかな白い白い肌に、不釣合いにいくつもの赤黒い華が咲いている。誰が? 何故? 何があった? ――許せない。と、乱雑に浮かんでは消える波のような思考と共に、俺は……不謹慎にも綺麗だとさえ思った。
「痛くないか、ハルヒ……? 大丈夫か……?」
タオルでひとしきり優しくぬぐってやった後、恐る恐るその一つに指先を触れされる。
――冷たい。痛いに決まってる。見ただけでそんな事くらい分かるだろう。気遣う台詞が自然に零れ出る口を、不思議に思わない。いたわるように、いとおしむように、ゆっくりと俺は痣をなぞった。
「……ぁ」
雨音といまだ衰えない雷鳴だけが轟く室内で、かすかにうめき声が響いた。
俺のものじゃなかった。意味をなさない、小さな小さな呻きだったというのに、それは鈴のようによく響いて俺の耳朶を打った。
「……ハルヒ?」
ハルヒの唇から漏れたうめきだった。
囁いて問いかける。その名前を、呼んだ。
呼応するかのようにゆっくりと開いていく瞼の下から現れ出たのは、濁った黒曜石。つぼみから開花する桜ののように、本当にゆっくりと開かれる。
「――ぁ、キョン……?」
胡乱に茫然と彷徨う胡蝶のような瞳が、焦点を俺に合わせたとき、ハルヒは確かにそう呟いた。
小さな小さな、髪の毛よりも細い残像のような声音は、雨音よりも大きく俺に聞こえてきた。
刹那に見つめあう。
「そうだ、俺だ。分かるか?」
手を握ってやる。しっかりと目を見つめて話す。そうしてやらないと駄目だと思った。
「……うん」
「大丈夫か?」
「……うん」
「怪我、痛むか?」
「……うん。でも」
「でも?」
うん、うん、うん。
と小さく首肯しつつ応えていたハルヒは、病人のような顔でふんわりと笑った。
儚い儚い、月下美人よりもなお儚く咲く花のような笑顔だった。頬に散ったその花の朱色の小さな花弁は、生命の灯り。
「キョンが居てくれたら、全部、だいじょうぶ……。昨日は、おかしな事言って、ごめんなさい……」
そう言って、ハルヒは笑んだまま涙を流した。
思わず息を呑む。こんなときにそんな事と、思う。まだ頭が上手く働いていないんだろう、と適当な考えで納得する。
「本当に、ごめんなさい……」
壊れて胡乱なハルヒは、もう一度呟いた。
――あぁ、そうか。
その顔を見て、俺は何かとても大事な事にようやく気が付いたような気持ちになった。
「……馬鹿」
「あ、ぅ、ご、ごめ、ごめん、ごめ、ごめんな、さ……あっ」
馬鹿と言われて顔をくしゃくしゃにしたハルヒを、俺は、
「……キョン? 怒って、ない?」
「ねぇよ」
「本当に?」
「あぁ」
「……」
「……」
「ど、どうして私制服着てないの……?」
今更そんなことで恥ずかしがっているハルヒを、俺は、近日の鬱憤とか陰鬱とか嫌な気持ちとかそういった負の感情を全部追い出して、
「ちょっと、静かにしてろ」
「……う、うん」
――ぎゅっと。
まるで想い人を護るように、思い切り、けれど優しく抱きしめた。
背中に力なく添えられる小さな手を、微塵も不快に感じない自分を、本当に不思議に思いながら。